物をあげる援助について思うこと。「釣り竿はどんどん与えよう!」
先日セネガルで子どもたちにサッカーボールをプレゼントしました。物をあげる援助について思うことをまとめます。
日本では、Macbookおじさんなるものが流行っていたようですが、先日セネガルでサッカーボールおじさんになりました。といっても、公募したわけではなくて、活動先の村の子どもたちに買ってあげたのですが。
ボランティアとして、物をあげることに対して反対という意見もあるかと思いますが、目的を達成するための手段となる物ならあげてよいと僕は考えています。
以下に考えをまとめていきます。
はじめに
サッカーボールをあげた経緯ですが、まずこれまで、村の人から、何かをねだられたことはありませんでした。町ではしょっちゅう何かと買うように言われるのですが、村では一切なかった。だからこそ、大切な活動相手として関係を続けてこれています。
ただ先日はじめて、一つだけ買ってとお願いされたものがありました。それがサッカーボールだったのです。
子どもたちの唯一の遊び:サッカー
この村には電気もなく、近くに大きな町もないので娯楽が限られています。子どもたちの唯一の遊びといえば、サッカー。農作業を終えたへとへとの体でも、いつもボールを蹴って遊んでいます。
しかし、使っているボールの状態が最悪。ハンドボール状の大きさのぺちゃんこなボールでプレイしています。実際に僕も参加してみましたが、ボールは転がらないし、バウンドはしないで、サッカーの面白さは半減でした。
ボールを買うべきかどうか
頼まれたとき、ボールを買うべきかどうか迷いました。以前、近所の人にものをねだられて家族崩壊を起こしていたからです。
しかし、今回は事情がまた少し別。村での生活は自給自足的に回っていて現金収入が少ないため、ボール代といえど、無駄な出費は許されません。町の人と比べて、お金には余裕がない中でのお願いということが大きな違いです。
迷った挙句、この人たちなら信頼できると思ったので、僕はボールを買うことにしました。これまでの活動から、彼らの興味は僕の持ち物ではなく、僕自身にもあることを確信できたからです。
サッカーボールをあげてみた感想
率直に気持ち良かったです。子どもたちも飛び跳ねての大喜びでした。気分はノリノリでサッカーチーム風に撮影。
そして早速2時間半ハーフタイムなしでぶっ続けにサッカーしてきました。笑
普段は細々とやってたのに、今回はゴールもきっちり設営。本格的!
そして、村の女子たちも観戦に駆けつけてくれました。
村を上げてのお祭りみたいになって、おじさんは幸せでした。
今後、チームとして鍛えて、近隣のチームと試合をしたいと考えています。村の子どもたちにスポーツの醍醐味を少しでも伝えられれば。僕自身もすごくワクワクする!
ものをあげる援助について思うこと
国際協力の世界では、「魚を上げるのではなく、魚の釣り方を教える」という考え方があります。
物をあげてしまうと、その場限りでの援助になってしまうけれど、物を得る方法を教えれば、被援助者は自立していけるという考え方です。しかし、この考え方で一点欠落している部分があるとすれば、
「釣り竿がなければ、魚の釣り方は教えられない」ということです。
今回のボールは釣り竿に相当すると僕は考えています。
サッカーの楽しさや、サッカーの上達を成果(=魚)と考えると、きちんとしたボール(=釣り竿)がどうしても必要だからです。
釣り竿はどんどん与えていけばいい
そうした道具がないことがボトルネックになって、本来の目的達成が遠のいている場合には、どんどん物を与えていけばいいと思います。
最近では、他に野菜の種なんかも自己負担で購入しました。種がないと野菜栽培は始まらないわけで、ここに下手にお金を使わない主義を持ち込んでしまうと、何にも着手できません。
もっとも、ただ与えるだけではよくないというのも事実。種の場合には、成果物である野菜ができたら、現物で返してもらうというスキームにしています。(野菜を売ったお金にすると、返済が難しそうに感じたので現物としました)
こうして約束を守ってもらうような仕組みを作りさえすれば、釣り竿をどんどん与えていけばいいのではないのでしょうか。
僕たちが活動する目的は、「物をあげない援助をすること」ではなくて、「現地の人の生活が良くなること」だということは、はき違えてはいけないと思うのです。
まとめ
以上、サッカーボールおじさんの物を上げる援助について思うことでした。
物をねだられたときに、それが「魚」なのか「釣り竿」なのかを見分けること。そして、「釣り竿」ならどんどん与えればよいのではないのでしょうか。